人間観の覚醒 芳村思風著〜 子育て編 【書評】
僕はこの本に出会い、とても刺激を受けた。ここ数年で一番繰り返し読んだし、考え込んだ本である。
その結果、僕は生き方に素直になれる。素直になっていい。という気づきを得て色々とトライアルしている。
熱く書いた書評はこちら”人間観の覚醒” 芳村思風 著 人生、生き方の指標となる一冊【書評】
この本からの学びはとても多く、子育てという観点でも考えさせられる内容が多かった。
僕には3歳の息子がいる。すごい勢いで成長していっている。
僕なりの子育ての考え方を嫁にぶつけ、議論し、世の中に流されず意志を持ってある程度は取り組めてきていると思う。
ただ、何が正しいなんてないので知識を入れて、考えてその時その時でベストを繰り返していくしかない。
さて、今回はその子育てに通ずる考えさせられる内容を中心に紹介していきたい。
問題児が正常であり、学校についていっている生徒のほうが問題児です。”
”感性論哲学の立場から考えれば、問題児が正常であり、学校についていっている生徒のほうが問題児です。
にんげんてき心を持った人間でありたいから現在の学校には行けない。これは極めて正常な感覚です。
いまの教育は命から湧いてくる問題とは無関係な問題ばかりを与えて考えさせるため、脳が機械的理性になっているのです。”
いきなり極論ではあるが、僕の中でもずっと引っかかっていた学校に通うという義務教育。
ある程度の集団行動を学ぶ場としては良いのだとは思うが、
「これが正しい。だからこれをやりなさい。」
「これは正しくない。だからこれはやってはいけません。」
「みんなこうしているんだから、あなたもこうしなさい。」
「常識を守りなさい。」
これは私の勝手な想像の言葉ですが、
もし、このような教えが今でも存在するなら怖いなと思うし、人それぞれが持つ個性は学校で育たないし、むしろ失われているのではないかと思っていた。
ひとそれぞれ尖った部分を持っているのに、学校の枠の中でテストが出来る(記憶力がいい)、体育で周りより優れている(体育の授業科目で優れているだけ)などで評価する仕組みは実際に存在する。
ただ、学校では圧倒的にやらないことのほうがやることよりも多い。学校でやらないことで興味を持った場合、周りの応援などが得られにくいなどは未だにあるのだろう。
学校での基本的な教育はもちろん最低限は必要だとは思う。
しかし、それ以外は学校の先生の経験から学ぶのではなく、世の中の様々な経験値を持った多くの大人とふれあい環境を作り、子供の可能性を広げていくのが親の役目だと思っている。
だから、僕はこの芳村先生の「問題児が正常であり、学校についていっている生徒のほうが問題児です。」という言葉がめたくそ胸に突き刺さった。
自分の考えを大事にしていこう!同じような思いで教育を捉えている人を探していこうと決めた。
六番目の原理は感じがいいか悪いかという「感性的な判断能力」を重要視することです。
”色んなパターンを見せて、「どれが一番感じがよかったか」を聞いて、「これが一番いい」と答えたものをやらせればいいのです。理屈は何一つ要りません。感性に問えばいいのです。”
また、
”子どもは目があるから見たがり屋、理性があるから知りたがり屋、手があるからさわりたがり屋、足があるから動きたがり屋、耳があるから聞きたがり屋です。
それなのに今のお母さんたちは「ダメ」を言い過ぎます。
子どもの感性をそのまま伸ばしてやれば誰でも大天才になれるのに、みすみすそのチャンスを奪っています。
「危ないから」といって感性の積極性を奪い、やる気のないこどもをつくってしまいます。”
子育て、しつけという名のもとに息子に「ダメ」と言っている機会が息子が言葉を覚えていくごとに増えているような気がした。
車道に出てはダメとか、ベランダ乗り出してはダメなど命に直結する部分はしっかりとしつけして「ダメ」を理解してもらうことは重要だ。
ただ何かやりたい、寝る時間なのにまだ遊びたいなどの時に
「もう寝る時間だから遊びはおしまい、寝る準備しなさい」などは考え直す余地がある。
この寝なさいの中には親として”早く寝て、私のやりたいこともさせてよ”的な要素も含まれているときが多分にある。
遊び欲と睡眠欲で睡眠欲が勝てば必ず子どもは寝ると考えれば、遊びを放置するのもありではないか。
とにかく、突然言ってくる息子の欲求に耳を傾け、最大限協力するのが親の勤めではないかと考えさせられた。
十歳ぐらいまでは、感動的な話や素晴らしい魅力的な言葉などを何度も読ませたり聞かせること
”十歳ぐらいまでは、感動的な話や素晴らしい魅力的な言葉などを何度も読ませたり聞かせることによって、どんどん暗記させて、考えなくても言葉が出てくるような状態にしてやることが大切なのです。
われわれはよりよく生きるために情報を求めます。そして、自分が生きるために必要な情報を獲得するために勉強するのです。それを考えると、勉強とは、先生が、「この子にはこれが必要だ」と判断してさせるのでは意味がありません。その子自身が必要とするものを与えなければ身にはならないのです。”
僕は幼少期に物語や小説を余り読んでこなかった。これは後悔してもしょうがないことだが、読まなかったことの弊害は今でもあるのではという思いである。
言葉遣いや文章の書き方、結び方など気持ちわるいと今でも嫁に指摘される。
この点は意識を持って改善する作業を開始する。日本語の勉強を行う。
それはさておき、子育てという観点で感動的な話や素晴らしい魅力的な言葉などを何度もよませたり聞かせたりすることで自分の思いが言葉にできるようになることは容易に想像できる。
親としては息子にそのような経験を得やすい環境を作り出すことが勤めである。
我が家ではテレビをなくす事で絵本を読む時間や我々親と話す、遊ぶ時間を増やす環境を作っている。この成果は間違いなくあると感じている。
どういう事かというと、
おもちゃや絵本、図鑑はいつの間にか遊びこなしたり、見こなしたりする姿を何度も見ているので、親としてはどんどん手に取るアイテムを増やすことも役目だ。
あと、もし少し話しがわかるようになってきたら自分の周りにいる魅力的なおじさん、おばさんと接する時間を増やし、気になったことをどんどん聞ける環境なども用意していきたい。
「なんで?」
「なんで?そんなことするの?」
「おじさんの仕事は誰が喜ぶの?」
などわからないが感じたことを質問して回答してもらえるような環境下においてあげたいと言うのが次の僕のチャレンジだ。
まとめ
兎にも角にも、子供の感性を引き出す。子供の可能性を広げること。
そして、一切押し付けない。
感性の赴くままに進める環境づくりが親の役目だろうと認識した。
この点はまた嫁と色々と議論していきたい。